隣のハットさん!

隣のハットさん!

ニッポンらぶなハット家のお騒がせ奮闘記 in Canada!!

MENU

ハットの葛藤 見失ったアイデンティティー

f:id:hatter4:20170922010832j:plain

大人になってから私が勝手に一人で葛藤していること。それは自分のアイデンティティー。

dictionary.goo.ne.jp

自己が環境や時間の変化にかかわらず、連続する同一のものであること。』

要するに、住んでいる場所が変わっても、どれだけ時間が経っても同じであることがアイデンティティーらしいのだが、私にはそれが欠落しているのではないかとさえ思える時がある。

幼少期

生まれた時から父の仕事の都合で転々としながら育った。大阪、愛知、三重は、幼すぎてほとんど記憶にない。少し残っている記憶といえば、小学1年の時クラスの男子の兄(6年生)がサンリオキャラ「キキとララ」のベルトをしていたことだろう。当時1年生の私にとって6年生といえば大人で、そんな大人が「キキとララ」のベルトをしていることが衝撃的だったのだ。

今治タオルばかり集めたタオル取扱店「伊織」

作り続けたアイデンティティー

その後、岐阜→京都→鳥取→アメリカ→群馬→長野→兵庫→長野→カナダと現在に至るまで、その土地土地で私は自分のアイデンティティーを作り続けた。

子供心に「みんなと同じようにしなければ浮いてしまう」と思っていたのか、引越しをする度にその地方の方言を習得し、周りに馴染もうとした。当時父は2年ごとの転勤がお決まりだったので、私も2年ごとに新しい方言を話すようになった。

岐阜弁

色々な方言の中でも岐阜弁は面白かった。お湯が熱いことを「ちんちん」、自転車を「ケッタマシーン(ケッタ)」、計算ドリルを「けいド(けドという人もいる)」と呼んでいたのを今でも覚えている。

米子弁

中・高は難しい時期でもあるからと、父親が単身赴任をしてくれたおかげで、私は中高6年間を鳥取県米子市で過ごした。女子中高生にとってこの時期は人生で最もクリティカルな時。鳥取で京都の丹波方言なんて話した時点でアウトだ。私は必死に米子弁を覚えた。

米子弁は、「食べない。(食べたほうがいいよ)」「寝るけん。(寝るから)」「そげだがん。(その通り)」のように語尾が重要だった。「あげ(あれ)そげ(それ)こげ(これ)どげ(どう)」のような代名詞もはずせなかった。

アイデンティティーロスに気がつく

高校卒業後アメリカに引っ越した。ここで問題が起きた。アメリカで知り合った日本人は、日本各地から来ているので方言もいろいろなのだが、自分のアイデンティティーを識別できない私はどこの方言を話して良いか分からなかったのだ。

仕方なく日本人の中で一番多く話されていた標準語を学んだ。アメリカで英語と標準語を学んだとは可笑しなことである。

Third Culture Kids (サードカルチャーキッド)

「サードカルチャーキッド」という言葉を聞いたことがあるだろうか?両親の文化圏と現在住んでいる文化圏との間に育つ子供達のことである。まさにうちの子供達がサードカルチャーキッズになる。

このサードカルチャーキッドは日本を転々として育った私のような子供達にも当てはまるのではないかと思う。

実は私の両親は関西人で、私は生まれてこの方家族とは関西弁を話す。私の生まれも大阪。親戚も大阪にたくさんいるから子供の頃は大阪によく行った。これが両親の文化圏で私の第一文化になる。だが日本各地や海外に住んだ私はその土地の文化と言葉(方言)を学んだ。これが第二文化だろう。私は常にこれらの文化の間にいる。

米子弁を話していても、家に帰ると関西弁だった。アメリカやカナダで関西人が関西弁を話しているのを聞くと無性に大阪弁を話したくなる。だが家族としか大阪弁を話してこなかった私は他の関西人と関西弁を話さない。いや、意を決したら話せるのだろうが躊躇してしまう。私は関西人ではない。では一体何なのか。

終わりに

アイデンティティーを認識できないからといって、人生につまずいてきた訳ではない。と思う(笑)ちゃんと立派なアイデンティティーがあるのに、私が自覚できていないだけなのかもしれない。

私の夢はアメリカで学んだ標準語をいつか上書きすること。そしてたまに関西弁でブログを書くこと。私のアイデンティティーを探す旅は続く。